乾癬という病い

このブログは、難治性皮膚疾患である乾癬という病いとともに生きる、一人の人間の記録です。

普通の生活

朝のラッシュの地下鉄を出ると、会社まで続くイチョウ並木が鮮やかな黄色に染まっている。あぁもう一年経つんだなと思う。

去年のちょうど紅葉の時期に、私は転職活動をしていた。綺麗に色づいたこのイチョウ並木の下を歩きながら今の会社の面接に向かっていた。

それから一年。同業他社への転職だった為、仕事内容は変わらないが、今は毎日ほぼ定時にあがれている。希望通り自分の時間を十分確保できる生活になり精神的にも体力的にもずいぶん楽になった。

生物学的製剤のお陰で、寝る前のステロイド軟膏を全身に塗る作業からも解放されて、更に時間を自由に使えるようになった。

クリアな肌でいわゆる「普通の生活」をする事ができた一年だった。

スカートを履いたり、ネイルを楽しんだり、頭皮を気にすることなく美容院へ行ったり、夏のイベントを楽しんだり。

本当に些細な事—— 例えば仕事中、エアコンの効き具合で、羽織っていたカーディガンを脱いで半袖になったり。そんな事を普通に出来る日々に幸せを感じ、その有り難さに感謝した。

クリアな肌を持つ人からみれば、驚く程の医療費を払って得た幸せが、こんなものなのかと思うかもしれない。でもクリアな肌を知らなかった私には、こんな「普通」が普通ではなかった。「普通」でいられる事は、私にとっては特別な事だ。

先月、8回目のトレムフィアを打った。急激ではないが乾癬は少しずつ悪化している。

7回目の注射の時、医師は数種類の別の製剤の冊子を渡してくれたが、私はずっとその冊子を部屋のテーブルの上に並べていただけで、考えることを避けていた。

「普通」の日々を普通に過ごしていたかった。

乾癬の皮疹がじわじわと増えていること、生物を変えたとしてもそれが効くかどうかわからないこと、病院へ通う回数、その他諸々を考え始めると急に現実を突きつけられるようで嫌だった。

これから季節は冬になり皮膚を隠す服装になる。だから多少乾癬が悪化しても大丈夫、春になったらまた考えようかなと、生物を変える決断を先延ばしにしている。

特別な日々なんてずっとは続かないとどこかで分かっている。一生生物を打ち続けるなんて不可能な話だ。

でもこの特別な日々の中で、私はまだぼぉっと、次の旅先は何処にしようかなどと夢見ているままだ。

 

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痛みのない体

私は子供の頃から筋金入りの頭痛持ちだ。

そしてここ数ヶ月、あまりに頻繁に起こる偏頭痛に悩まされていた。先月には毎日偏頭痛が起こるようになり、おまけに薬も効かなくなって仕事に影響がでてきたので、頭痛外来に通う事にした。

偏頭痛の予防薬がある事はずいぶん前から知っていたが、効くかどうかわからない薬を毎日服薬しなければならないのが嫌でずっと避けていた。

でももうそんな事を言っている場合ではなくなり、今は3種類の薬を毎日朝晩服用している。

今は通常の偏頭痛と緊張型頭痛の混合型に悩まされているが、子供の頃は約6年間、閃輝暗点を伴う偏頭痛に苦しんでいた。

この閃輝暗点を伴う頭痛は本当に耐え難い痛みだった。視界にチカチカする点が現れ、それがギザギザした線になって広がり視界を塞ぐ。小中学生の時、閃輝暗点が始まると教科書が見えなくなり、保健室に駆け込んでは猛烈な頭痛と吐き気で呻きながら、ベッドで症状が治まるのを待った。痛みに耐えるだけで体力を奪われ、自力では帰れなくなり、親に学校まで車で迎えにきてもらっていた。

後に知った話だが芥川龍之介もこのタイプの偏頭痛持ちだったらしい。閃輝暗点の様子は彼の小説「歯車」の中で描かれている。芥川は閃輝暗点を「視界を遮る半透明の歯車」と表現し、その描写とともに作品の中の主人公の精神は追い込まれ、次第に崩壊していく。そしてこの作品を書き上げた年に芥川は自殺している。

この激しい頭痛が芥川が未来を悲観した要因の一つとも言われていて、私はそれを知った時とても共感したのを覚えている。

偏頭痛は通常の頭痛とは痛みの発生の仕方が異なるため、痛み止めは全く効かない。

現在は偏頭痛用にトリプタン製剤という脳の血管を収縮させ痛みを抑える薬があるので助かっているが、私が子供の頃はそのような薬はなかった。

どの病院の先生も私がこんなに苦しんでいるのに助けてくれない。原因もわからないと口を揃えて言う。わからないということが不安を増幅させ、痛みをより激しくさせる。子供の頃から私は大人が言う「わからない」という言葉が大嫌いだった。

うんざりしていた。医者のくせに、大人のくせに、わからないって言わないで!と心の中で叫んでいた。

乾癬も偏頭痛も子供の私にはとうてい耐えられるような病ではなかった。私は将来を悲観していた。日々体に広がっていく乾癬の皮疹、そしていつ襲ってくるかわからないチカチカする光と激しい頭痛に怯えながら、こんな体で大人になるまで生きていけるわけがないと思っていた。

今も頭痛に苦しむ時、子供の頃の事を思い出す。

トリプタン製剤を使えるようになってから頭痛はあまり怖いものではなくなったが、偏頭痛は日常生活において、かなり私の楽しみを奪っていった。

偏頭痛は大きな音や強い光、寝不足や寝すぎによっても引き起こされる。気圧の変化にも反応するし、お酒を飲んでも起きる。

私は好きなミュージシャンのライブに行ったり映画館で映画を観るのが趣味だったりするが、観ている最中、その音やライティングの強さによって必ずと言っていいほど頭痛が起こる。

仲間と楽しくお酒を飲んでも頭が痛くなる。

仕事が忙しくて寝不足になっても、休日ホッとして寝すぎた時にも頭は痛くなる。

この前の沖縄旅行でも強い日差しが刺激となり毎日頭痛が起こり薬を飲んでいた。

でも頭痛外来に行き、予防薬を飲むようになって、いま10日間くらい頭痛がない日が続いている。

こんなに効果があるとは思わなかった。

痛みのない体って素晴らしい。痛みを我慢するのはもうこりごりだ。

毎日薬を飲むことになっても、痛みのない体で過ごせるならそれが一番いいと今は思っている。

 

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沖縄旅行

遅い夏休みをとって私は沖縄に行くことにした。今打っているバイオ製剤のトレムフィアがあまりスキッと効いてくれず新しい皮疹が出てきている。少し焦っていた。

来年もクリアな肌でいられる保証なんてない。だから今のうちにやりたい事をやっておきたい。夏が終わってしまうのが嫌で、まるで悪あがきするように私は沖縄旅行を決めた。

今回目指したのは沖縄本島ではなく、離島。青い空と海。そして白い砂浜。こういう場所が似合わない私でも今のクリアな肌なら夏を思い切り楽しめると思った。

が、実際に行ってみると予想以上に沖縄の日差しはめっちゃくちゃ強かった。「絶対焼かない」というフレコミの日焼け止めを塗り、更にラッシュガードを羽織って守らないと、ひ弱な私の肌はとんでもない事になりそうだった。

石垣島のホテルに着くとそそくさと日焼け対策をし、すぐに海へ遊びに出た。

白い砂浜を走って渡りエメラルドグリーンの海になんのためらいもなく飛び込んだ。いい歳なのにまるで子供のように友人ときゃあきゃあと声を上げながら泳いだ(意外にうまく泳げた)。

島にいる間、楽しくて私は乾癬患者である事を忘れていた。

西表島に沈む夕日を眺め、沖縄民謡をライブで聴きながらオリオンビールと郷土料理に舌鼓み。シュノーケルでウミガメと共に泳ぎ、竹富島では牛車に揺られた。赤瓦の屋根を見ながら沖縄らしい景色の中で島時間を過ごした。

沖縄で食べたかったものは全部食べた。

やりたかった事も全部やった。

あぁもう悔いはないなと思った。またあの醜い肌に戻ったとしてももういいやとすら思った。夢のような時間を過ごせたことにただただ感謝した。

帰りの飛行機が無事に羽田に到着し、電車で自宅の最寄駅に降りると外はキンモクセイの香りがしていた。不在にしていたたった数日の間に、東京はすっかり秋になっていた。

 

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思い込み

ある日テレビを見ていたら沖縄の海が映っていた。白い砂浜に青い海と空。そして赤瓦の屋根の町並み。沖縄らしい風景だった。

行きたいな、とすぐに思った。

趣味で旅行はよくしていたが、いままで「青い海と空」といういかにも南国のリゾートみたいな風景や場所には全く興味がなく心惹かれることがなかった。

昔、沖縄本島には一回行ったことはあるが海にはやはり興味がなく、歴史や文化、食べ物の方に興味を持っていた。

でも観ていたテレビに映っていたのはいかにもな南の島の風景。なのにものすごく興味をひかれたのだ。

すぐに友人に会い、沖縄に行かない?と誘った。

友人は驚いた顔で言った。「沖縄?泳ぐの?? へぇ意外、そういうとこには興味ないかと思ってた。でもいいね、よし、計画を立てよう!」

自分でも驚いていた。

クリアな肌になった途端に急に興味まで変わると思っていなかった。

もしかしたら変わったのではなく、乾癬のせいでそういう場所は私には無縁だと無意識に諦めていただけだったのかもしれない。

だったら他にもそういうことが私にはあるのかもしれないなと思った。新たに興味が湧くこと、物、場所。本当はもともと興味があったこと。

自分の趣味嗜好はある程度把握しているつもりだったが、案外思い込んでいただけのこともあるのかもしれない。

だって今年は、夏が終わっていくことを少し寂しいとすら感じている自分がいることに本当にびっくりしているのだ。

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トレムフィア7回目

トレムフィアが効かなくなってきて乾癬は少しずつ悪化している。体のあちこちに新しい小さな皮疹が出てきている。

先日7回目のトレムフィアを打ちに病院へ行き、体を先生に診てもらった。肩のあたりをちらっと診ただけで先生も「あぁ確かに広がってますね、うーん」と表情を曇らせた。

実は頭皮にも皮疹が出てきていた。

体に新しい皮疹が出てくのはなんとなく我慢ができるのだが、久し振りに頭皮に皮疹ができ、鱗屑が髪の毛に絡まっていたのを見つけた時はさすがに焦った。過去の色々な記憶がふっと甦り、一瞬で嫌な気持ちになった。頭に鱗屑がつくのはとにかく嫌なのだ。

私は医師に「また生物を変更した方がいいんでしょうか。いま乾癬は悪化していますがこれからまたトレムフィアが効いてくるなんてことはあるんでしょうか」と質問した。

医師は「例えば体重を落としたり生活習慣病を治すと効きが良くなるってことはあります。」と答えたが、痩せ型で生活習慣病もない私には適切な回答ではなく、私はうーんと考え込んでしまった。

トレムフィアを打ち始めて一年、前回の生物ステラーラも効果を保てたのは一年だった。

この一年という期間の短さに私はかなり不安を感じている。こんな短い周期で生物を変更していくとは予想していなかった。

もちろんこの周期で変更していったとしてもまだ使える生物は何種類もあるし、今後続々と新しい生物が出てくるのだろう。

私によく合う生物があるかもしれないし、全く合わない生物もあるかもしれない。

考え込む私に医師は、3種類の新たな生物の冊子を渡してくれた。コセンティクス、トルツ、ルミセフの冊子だった。医師は、もし今のトレムフィアから変えたければ、この中から選んで2ヶ月後の診察の1週間前くらいに連絡をください。そしたらそれを発注するので次回はそれを打ちましょう、と言った。

そうか、決めるのは私なんだな、と思った。

確かにどれほど乾癬が改善すれば納得できるのかは患者次第だ。皮疹ゼロを望む人もいれば7〜8割程度の改善でも特に生活に支障が出ず満足する人もいる。確かにそうなのだが、なんだかあまりに未知数なこと過ぎて自分の決断に自信を持てない。

医師に一緒に決めてもらいたいとも思うのだが、やはり最終的に決めるのは自分。

使い始めた生物が効かなくなってきた時の不安や恐怖、そして感じる僅かな絶望感。こういう感情も今後幾度となく自分自身が引き受けなくてはならないんだなと覚悟した。

ステロイド軟膏も何種類か処方してもらい、2ヶ月後の悪化具合をみて連絡しますと医師に伝え、この日の診察は終わった。

支払いを終え、病院を出て薬局に向かった。

薬局で処方箋を渡すと軟膏代が1万円を越えていて驚いた。限度額はもう生物で払っているので今から払う軟膏代は3ヶ月後には還付されるが、なんだかため息が出る。

11月までに、引き続きトレムフィアを使うか新しい生物を使うのかひとりでじっくり考えないといけない。気が重い。

評判の良かったトレムフィアがあまり効かなかったという事実が、かなり私を不安にさせているのだ。

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花火大会

今夏は半袖Tシャツを何枚か買った。

今まではTシャツを着るというごく何気ない普通の事が出来なかった。乾癬で腕を出せないからだ。今は着れる。すごい事だ。

そうだ、と思い立ち、私は家にあるホワイトジーンズを裁ちバサミで膝丈まで切ってみた。切った裾を少し折り返して履いてみると、うん、いい感じ。Tシャツにハーフパンツ、全然暑苦しくないしとても夏らしい。

今年の花火大会はこの格好で行こうと決めた。

いつも友人が良い観覧席を用意してくれて、大人数で隅田川の花火を楽しんでいる。

でも私は毎年不安の方が先に立っていた。暑さに耐えられるだろうかと。

日が沈まないうちからみんなで集まり、花火が始まるまで炎天下で飲み始める。長袖長ズボンだと暑さに耐えられなくなる。

だからなんとか五分袖くらいのTシャツを着れないかと何日も前から腕に強いステロイドを丁寧に塗って準備を始める。皮疹は綺麗になるだろうか。五分袖を着れるだろうか。それが心理的にかなりプレッシャーになる。

だから私はいつも花火を心から楽しめなかった。

暑さにのぼせながら乾癬にうんざりしながら夏のイベントをなんとかやり過ごしていた。

今年花火当日、外気はとても暑く湿っていた。気温は30度を超えている。いつもならそれだけでもう気分が悪くなる気候。

でも今年は乾癬を気にする心配や不安がない。それだけで感じる暑さまでが全然違う。もちろん暑いのだが心の苦しさが全くない。

暑いんだから肌を出す。腕も足も。みんながそうしているように。それが当たり前かのように。

クリアな肌で外気に触れる。自然な形で外と自分の皮膚が繋がる。暑さも湿度も直接肌で感じる。暑さすら楽しめる。間近で聞く花火のドーンという爆音を体中に浴びながら、あぁ夏が来たんだなと実感した。

帰り道、嬉しさを噛み締めながら歩いた。ずっとこうやって夏を楽しむのが夢だった。 それが自分にも出来た。 夜風に当たりながらその心地よさも嬉しくて、胸がいっぱいになって思わず涙が出た。

健康な体で生きるって多分すごいことだ。 それだけで生きる素晴らしさを感じられる機会がたくさんある。

いずれ人間は歳をとり病を負い体が動かなくなって死んでいく。

でもそれまで最低限働けるだけの体と心さえあれば、楽しむチャンスはいくらだってあるんだ。

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トレムフィア6回目

先日トレムフィア6回目を打ちに病院へ行った。ステラーラからトレムフィアに変更したのは去年の9月で最初は規定通り8w毎に打っていたが今年に入り経済的に苦しくなったので12w毎にしていた。

今回の診察で乾癬が悪化しているからやはり8w毎に戻しましょうという事になった。

悪化しているのは肩や首回りとお腹だ。幸い足や腕の乾癬は消えているので日常生活に今のところ問題はない。半袖やスカートも着ることができる。

確かに高額な治療費を払っているのだから乾癬が完全に消失してくれるのがいちばん望ましい事だが、普段は外から見えないところが悪化しているのでQOLは高い水準で保てている。でも次回は今年4回目の注射で限度額認定の多数該当になり、少し医療費が安くなるので8wで打つことに承諾した。

私が行っている病院では今年4月に大きな人事異動があったらしく皮膚科には新しい先生の名前が見受けられた。ちらっとその名前を見た時なんとなく見覚えがある気がした。治療が終わり支払いを待っている時に私は突然その名前を思い出した。昔、20年くらい前に私が某大学病院に光線治療で通っていた時の先生の名前だと。

私はスマホでその先生の名前を検索してみた。やはり某大学出身で、その大学病院で勤務後、様々な経歴を経て現在私の通う病院でこの4月から結構なポジションに就いていた。

私がその医師に診てもらっていた時、当然私も若かったがその先生も新米だった。光線治療は私にはなかなか難しく数十秒長く当てただけで身体中火傷状態になったりした。大学病院では医学生がゾロゾロと研修で私の乾癬を診に来たりしてあまりいい思いをしなかった。そのうちに光線療法には通わなくなった記憶がある。

あの時の先生が20年位の時を経て随分立派な医師になっていた。

私はその年月の長さを想った。この間、いやそのずっとずっと前から今に至るまで私は相も変わらず病院に通う乾癬患者なんだと思い知らされた気がした。

長い。あまりにも長いと思った。

乾癬て残酷な病だなと改めて感じたトレムフィア6回目の治療日だった。

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